テレビ業界人 「ゴジラ-1.0は敗戦コンプレックスをこじらせたネトウヨ映画。観る価値なし」

実写・ドラマ・劇場版
1: 名無しのアニゲーさん 2024/03/09(土) 18:40:03.27 ID:1exKC6oi0● BE:675960865-2BP(2000)
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『ゴジラ -1.0』の脚本がなぜダメなのか、できるだけ簡潔に整理。

●映画では「特攻」を否定しているかのように見える。しかし主人公の敷島は、典子を殺された怒りで
頭に血が上り、完全にゴジラに特攻するつもりでいる。その心理は最後まで変わることがない。
結果的に彼が特攻しなかったのは「橘がたまたま脱出装置を発明してくれたから」に過ぎない。
つまりドラマとしては、敷島は特攻を肯定したまま終わっていて、その心理的な葛藤は
何も解決されていない。お前は特攻を否定しているのか、肯定しているのか、どっちなんだ!
この曖昧さが死ぬほど気持ち悪い。政治思想の問題ではなく、ストーリーテリングの構造として明らかにおかしい。
●さらに言えば、敷島は最初に特攻から逃げていたため、ぼんやりしていると「特攻を否定していた臆病者が、
愛する者を殺された怒りから、特攻も辞さない勇気を獲得する物語」にさえ見えかねない罪深さ。
●あれだけ強大な敵を相手に「前の戦争と違い、今回は一人の犠牲者も出さない」という
頭の中がお花畑な発言をする野田。そして少なくとも人的被害は直接描かれず、その理想が
実現したかのように見えてしまう嘘臭さ。
●そのような物語から導き出されるのは「前の戦争が間違っていたのは、間違ったやり方で、
結果的に敗北したから。おかしな上下関係が無く、人的な犠牲を出さずに勝利できるなら、
戦争は正しい」というイメージ。「おかしな上下関係が無く、人的な犠牲を出さずに勝利できるなら、
戦争は正しい」…おう…それが実現できればな…お前さん、頭の中には常に春のお花畑が
広がっているんだな。うらやましいよ。

細かいことを言えば、もっといろいろ上げられるが、一番気に入らないのは、この「否定していたはずの特攻を
肯定したまま終わる物語構造のおかしさ」と「お花畑理論で戦争を肯定してしまう愚かさ」。
やはりこの2つが最大だな。

そんなわけで私にとって『ゴジラ -1.0』は「敗戦コンプレックスをゴジラで晴らすオナニーストーリー」
以上ものではないのである。



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